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大阪地方裁判所 昭和41年(わ)156号 判決

目次

主文

理由

罪となるべき事実〈省略〉

証拠の標目〈省略〉

法令の適用〈省略〉

強盗殺人、死体遺棄の訴因を無罪にした理由

第一  公訴事実の要旨

第二  当裁判所の判断

一、 被告人の供述調書の証拠能力

(一) 調書作成の経緯

(二) 第一次逮捕勾留中に作成された被告人の供述調書の証拠能力

1 別件逮捕勾留と本件取調の適否

2 弁護人依頼権の侵害

3 取調方法の適否

4 憲法三八条一項、二項の関係

(三) 第二次逮捕勾留中に作成された被告人の供述調書の証拠能力

(四) 結論

二、自白等

三、自白等の信用性及び補強証拠の存否

(一) 死体発見の経緯

(二) 殺害の日時

(三) 殺害の動機

(四) 殺害の方法(タオルの存在)

(五) 氏名不詳者(共犯者)の存在

(六) 死体遺棄現場の状況

(七) 結論

第三  むすび

主文

被告人を懲役二年に処する。

但し、この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実中強盗殺人、死体遺棄の点については被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)〈略〉

(強盗殺人、死体遺棄の訴因を無罪にした理由)

第一公訴事実の要旨

被告人は

一、昭和三九年七月頃から昭和四〇年六月頃までの間、被告人と同じ大阪市住吉区殿辻町七六番地所在の清和園アパートの一号室に居住していた堀川允子(当三五年)より数回にわたり現金合計約三〇万円を借用し、同年七月末日までに全額返済する約束をしていたが、同年八月二日になつてもこれを返済することができず、かつかねてより同女と情交関係を結んでいたところ、同年七月二八日頃内妻米田美智子が親許に帰つたまま被告人の居室(同アパート二〇号室)に戻らなかつたので、同女が被告人と堀川允子との情交関係を察知したものと考え、この際堀川允子を殺害して右債務の支払を免れると共に、内妻米田美智子の疑いをも払拭しようと決意し、同年八月三日午後六時三〇分頃右堀川允子に対し「ドライブに行こう」と声をかけて同アパートから誘い出し、かねて打合せをしておいた顔見知りの氏名不詳者運転の自動車に同女を同乗させ、同日午後八時三〇分頃神戸市東灘区住吉町西谷山甲山一、七八八番地の一一付近に至り、走行中の車中において、左腕で同女の頸部を抱きかかえて絞めつけ更にタオルをもつて右頸部を絞めつけ、同所において同女を窒息死させて殺害し、もつて右三〇万円の債務の支払いを免れて財産上不法の利益を得た。

二、前記氏名不詳者と共謀のうえ、同日同時刻頃被告人において殺害した前記堀川允子の死体を、前記殺害の場所より約四五〇メートル北方の同町無番地六甲山大月地獄谷に突き落して遺棄したものである。

第二、当裁判所の判断

一、被告人の供述調書の証拠能力

(一)  調書作成の経緯

〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

1、被害者堀川允子は、昭和三五年四月頃から大阪市住吉区殿辻町七六番地所在の清和園アパート一号室に居住し、昭和三八年七月頃から大阪府堺市船堂町所在の堺市立五箇荘保育所に主任保母として勤務していた。同女は、昭和四〇年八月三日午前八時三〇分頃同女方に立寄つた叔母藤沢正子とともに同アパートを出発し、同市新在家西一丁四四番地刃物仲買人山岡隆方を訪ずれた後、同日午後同保育所に出勤し、同日午後五時三〇分頃勤務を終えて同保育所を退出した。ところが、翌四日朝同保育所では他の二名の保母が休暇届を出して休んでいた関係上、堀川允子だけが出勤することになつていたにも拘らず、同女が出勤しなかつたので、同保育所用務員岡本晴雄及び同人から連絡を受けた同女の友人岡田逸子が電話で清和荘アパート管理人小森ヒサエに問合せたところ、堀川允子は不在でドアに鍵がかかつているとのことであつた。そして、同女は翌五日になつても同保育所に出勤しなかつたため、同保育所では同日堀川允子の実兄平野安順に対し電話で同女が二日にわたつて無断欠勤している旨連絡したので、右平野は直ちに同アパートの同女の居室を訪れたが、ドアに鍵がかかつていたため合鍵を使用して室内に入つたところ、同女は不在で同女の行方の手掛りになるようなものはなかつた。

2、その後同女の行方は依然として判明せず、右平野や同じく堀川允子の実兄堀川利純は色々と手をつくして心当りをたずねまわつたが、一向に手掛りが掴めなかつたので、同月六日堀川利純が住吉警察署保安係を訪れ、同女が行方不明であることを届出たところ、同係では右届出を家出人保護願として処理し、堀川允子の行方等について十分な捜査をしなかつた。平野安順は、同月九日堀川允子の行方について手掛りを得るため、清和園アパート二〇号室の被告人方を訪れて被告人に面会したところ、平野の方から借金の話を切り出したわけでもないのに、被告人の方から「前に堀川允子から二〇万円借りていたが、同年六月六日に返した。」といい出したので不信に思い、あとで調べてみると、堀川允子の家計簿等に被告人に金を貸した旨の記載があつたので、被告人が堀川允子の行方不明につき鍵をにぎつていると考えるに至り、同年八月一六日住吉署に赴き、自分の考えを同署警察官に報告した。

3、住吉署では、同月二八日に至り、家出人保護ばかりでなく犯罪捜査の面からも同女の行方を捜索することに方針を切り替えたものの、あまり捜査に熱意を示さなかつたので、右平野は堀川允子の失踪が新聞記事になれば警察も本格的に動き出すだろうと考え、知人の読売新聞記者に相談したところ、同紙が堀川允子の行方不明を記事として取り上げることになり、その結果同年九月九日の同新聞朝刊に堀川允子が一カ月以上行方不明で他殺の疑いもある旨の記事が掲載された。大阪府警察本部捜査第一課三班(強力犯担当、班長小林史朗警部以下一三名)は、右記事によつて初めて堀川允子が行方不明であることを知り、監禁あるいは殺人事件の可能性もあると判断し、即日住吉署に出張して同署内に捜査本部を設け、住吉署と合同で捜査を開始した。そして、平野等の関係者から事情を聴取した結果、同年九月一六日付で「堀川允子が同年八月四日頃アパートを出たまま消息を断ち、監禁されているか、殺されていると思われるふしもあるので、同日以降に同女を見かけたり、心当りのある者は警察官に連絡するように、」との内容の、堀川允子の人相、特徴、失踪時の服装、所持品等が記載されている同女の写真入りの手配書六万枚を印刷して各派出所、駐在所、旅館、浴場等に配布するとともに、同女の行方について懸命の捜査を続けたが、清和園アパートの管理人小森ヒサエから「同年八月四日朝、堀川允子が見知らぬ男とアパートを出て行くのを見た。」旨の供述を得たほかは、特に有力な手掛りはなく捜査は難航していた。

4、捜査本部では、平野からの事情聴取その他の捜査結果から、同年九月一五日頃より被告人に疑いの目を向け、徹底的に被告人の尾行や身辺捜査を行つた結果、堀川允子の行方不明と被告人を結びつける有力な手掛りは見出せなかつたが、同年一〇月頃になつて被告人が数多くの信用金庫に出入して金員を受けとつている事実をつきとめた。捜査本部では、右事実を検討した結果、被告人が尼崎信用金庫、大福信用金庫から金員を受取つた行為を詐欺罪に該当するものと判断し、とりあえず、右詐欺罪の容疑で被告人を逮捕勾留して右詐欺罪につき取調をなし、その身柄拘束状態を利用して捜査が難航している堀川允子の件についても被告人を併せ取調べようと考え、右各信用金庫からの被害届その他の資料を整えて同月二九日大阪地方裁判所に対し、右詐欺罪の嫌疑により被告人の逮捕状を請求し、同日その発付を受け、同年一一月一日清和園アパートの被告人の居室において右逮捕状を執行し、被告人を逮捕した(第一次逮捕)。同月二日警察官から右詐欺事件の送致を受けた大阪地方検察庁検察官塚田善治は、同嫌疑により、同裁判所に対し被告人の勾留請求をなし、勾留状の発付を受け、同日右勾留状を執行し、その執行により被告人は代用監獄である住吉警察署留置場に勾留されることとなつた。(第一次勾留、勾留期間満了日は同月一一日)。捜査本部では、被告人の逮捕後、小林班所属の司法警察員帰山次夫が主任となつて、ただちに、前記尼崎信用金庫、大福信用金庫に対する詐欺容疑について被告人の取調を開始し、逮捕の日である同年一一月一日から同月六日まで引続き六日間、専ら右詐欺事件について取調をなし、その間昭和四〇年一一月二日付、同月四日付(二通)、同月五日付、同月六日付(二通)、の計六通の被告人の司法警察員に対する供述調書を作成し、警察段階における右詐欺事件についての被告人の取調を完了した(被告人は、昭和四〇年一一月二日付供述調書では犯行を否認し、その余の供述調書では犯行を認めている)。

5、翌一一月七日、捜査本部では、いよいよ堀川允子の強盗殺人容疑についての取調に着手し、同日午前一〇時頃帰山主任は被告人に対し、「今後堀川允子の殺人容疑で取調べる」旨告げ、被告人に対しポリグラフ検査を実施しようとしたところ、被告人は、「堀川のことで聞くのであつたら何故証拠を揃えて殺人容疑で逮捕して調べないのか。それでなかつたらいわない。佐々木哲蔵を呼べ、」と述べて、佐々木哲蔵弁護士を弁護人として選任したい旨申し出たところ、帰山主任はかねてより、同弁護士が大阪弁護士会所属の弁護士であることを熟知しており、被告人の申出の趣旨を理解して、上司の小林警部に対し被告人が右のように弁護人選任の申出をした旨報告したが、結局捜査本部から佐々木弁護士あるいは大阪弁護士会に対し右弁護人選任申出の件について何らの通知もなされず、取調が続行された。

6、被告人は、右のような弁護人選任の申出をなし、一時取調を拒んだものの、結局ポリグラフ検査の実施を承諾したので、同日午前一〇時過ぎから午後一時頃までの間①堀川允子の死体の処分、②殺害方法③殺害日時④堀川允子の所持金⑤呼出し方法⑥堀川允子の行動⑦犯人の人数⑧殺害場所⑨殺害の動機の九項目について被告人に対しポリグラフ検査が実施された。そして、同日午後からは小林班所属の帰山次夫、柴田昇、実原昇の三名が担当して、強盗殺人容疑につき本格的に被告人を取調べ厳しく追及したが、被告人は犯行を否認していた。その取調は、住吉署二階にある畳敷きの幹部宿直室において、畳の上に毛布を一枚敷き、その上に被告人と右警察官が机を挾んで対座して行われた。

被告人が右期間中留置所より呼び出されたのは、同月七日午前九時四五分より午後一時〇五分まで(三時間一〇分)午後三時二〇分より同八時三〇分まで(五時間一〇分)、同月八日午前一〇時より午後〇時二五分まで(二時間二五分)、午後一時三〇分より同五時三〇分まで(四時間)、同月九日午前九時三五分より午後〇時三〇分まで(二時間五五分)、午後一時一〇分より同五時一〇分まで(四時間)、午後五時四五分より同八時二〇分まで(二時間三五分)、同月一〇日午前九時一五分より午後〇時四〇分まで(検察官調)、午後一時四五分より同五時一五分まで(三時間三〇分)、午後六時五分より同一一時二五分まで(五時間二〇分)であるが、右時間の大部分は被告人の取調に充てられ、その間、帰山主任は被告人に対し正座を強要したこともあつた、(この点につき、第九回公判調書中の証人帰山次夫の供述部分によれば、同証人は「私が誠心誠意被告人にいつているのに、被告人がふてくされていては調べになりません。私も自分の誠意を示す意味で正座して聞いており、被告人に「何もかもいつて私のふところに飛び込んで来い、」といいきかせていたわけであります。それに対し被告人も正座して調べに応ずるというのが普通ではないかと思います。」と供述し、第一〇回公判調書中の証人帰山次夫の供述部分によれば、同証人は、「こちらの方が、こういうように一生懸命になつているんだから(正座して取調べているの意)、これを聞く者はやはりそれだけの態度で聞くのが常識的とちがうか、」といつたら、私を見習つて正座した、」「自分は正座している。お前(被告人のこと)も正座せい、ということも一、二回はその時に応じていうておるでしよう、」と供述していることが認められるから、これらの供述を総合すれば、帰山主任は取調中被告人に対し正座を強要したこともあつたものと認めるのが相当である。)

7、被告人は、一一月七日以後ずつと犯行を否認していたが、同月一〇日夕方、取調中に被告人が偶々堀川允子の悪口をいつたので、帰山ら三名の警察官は、班長小林警部と相談のうえ取調室内の被告人の正面の壁に堀川允子の四つ切り写真を貼りつけ、「堀川さんの前でも悪口をいえるか」と問い詰めたところ、被告人は、おとなしくなり、同日午後六時頃になつて犯行の一部を自供し始め、その後同日午後一一時頃までの間右帰山ら警察官の取調に応じて「自己が堀川允子を殺害した」旨供述し、同時刻頃堀川允子の死体遺棄現場を示す略図(第一の略図)を作成して帰山主任に手渡した。

なお、同日午前中被告人は、大阪地方検察庁において、検察官塚田善治から前記詐欺事件について取調を受け、同日付で被告人の検察官に対する供述調書が作成されている。

8、翌一一月一一日、班長小林史朗以下約一〇名の小林班員並びに住吉署の警察官は、自動車二台に分乗して六甲山に向い、同日午後〇時二〇分頃、神戸市東灘区住吉町無番地大月地獄谷の堀川允子の死体遺棄現場に到着し、同日午後一時頃から、右現場付近の実況見分が行われた。他方、同日午後、住吉署に待機していた帰山主任により、同月一〇日の被告人の自白を内容とする、被告人の司法警察員に対する同月一一日付供述調書が作成され、同供述調書末尾には、被告人が同日午後新たに作成した死体遺棄現場付近の略図(第二の略図)が添付された。

なお、同日午前中、前記検察官は、前掲詐欺事件を大阪地方裁判所に起訴し、右詐欺を被疑事実とする第一次勾留の期間は同日をもつて満了した。

9、捜査本部では、同年一一月一一日、強盗殺人死体遺棄の嫌疑で、大阪地方裁判所に対し、再び被告人の逮捕状を請求してその発付を受け、同月一五日右逮捕状を執行して被告人を再逮捕し(第二次逮捕)、強盗殺人、死体遺棄容疑で本件被告人の取調を続行し、同日付、及び同月一六日付の被告人の司法警察員に対する各供述調書を作成した。

同月一七日、前記検察官から同嫌疑により大阪地方裁判所に対し、被告人の勾留請求がなされ、同日勾留状が発付され勾留状の執行により被告人は住吉署に勾留された(第二次勾留、勾留期間満了日は同月二六日)。そして、同月二六日、右検察官の請求により、勾留期間は同年一二月六日まで延長された。

右勾留の日である同年一一月一七日から、勾留延長期間満了日である同年一二月六日までの間、右強盗殺人、死体遺棄事件について、同年一一月二〇日付、同月二二日付、同月二九日付、同年一二月一日付の計四通の、被告人の司法警察員に対する各供述調書が作成され、また同年一二月三日には大阪地方検察庁において、被告人の検察官に対する同日付供述調書が作成され、同月六日、被告人は強盗殺人、死体遺棄罪で大阪地方裁判所に起訴された。

以上の事実が認められる。

(二)  第一次逮捕勾留中に作成された被告人の供述調書の証拠能力

1、別件逮捕、勾留と本件取調の適否

(1) 別件逮捕、勾留という用語は、使う者によつて、その意味内容がまちまちに用いられているが、ここでは、一応「乙事実(本件)について捜査中の被疑者を、同事実について取調べる意図をもつて、甲事実(別件)により逮捕勾留すること」と定義して以下検討を加えることとする。

(2) 憲法三三条は、犯罪捜査の過程における捜査官の人に対する強制処分の濫用を防止し、被疑者の人権を保障する目的のもとに令状主義をとることを明らかにし、現行犯逮捕の場合を除き、被疑者の身柄を拘束すべきか否かの判断を裁判官に委ね、何人も裁判官の発する、理由となつている犯罪を明示した令状によらなければ逮捕されない旨規定している。そして、刑事訴訟法同規則は、この理念を実現するため、捜査官より逮捕状の請求があつた場合には、被疑者に罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があり、明らかに逮捕の必要性がないとはいえない場合に初めて逮捕状を発付することとし(刑事訴訟法一九九条二項、同規則一四三条の三)、勾留請求があつた場合には、被疑者に罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、勾留の理由、必要性がある場合に初めて勾留状を発することができる旨規定している(刑事訴訟法二〇七条、 六〇条)。そして、被疑事実の要旨、罪名は逮捕状請求書、勾留状請求書の記載要件とされ(刑事訴訟規則一四二条一項、 一四七条一項)、裁判官は右各請求書に記載された犯罪事実を基準として、捜査官が右各請求書に添付した資料(刑事訴訟規則一四三条、 一四八条)に基づいて、犯罪の嫌疑、逮捕、勾留の理由、必要性の有無を審査し、令状主義による司法的抑制機能を十分に果しうるよう努めているのである。

従つて、憲法三三条が明言する令状主義の理念を極端に強調すれば、被疑者の逮捕、勾留は、事件単位に運用されるべきことになり、甲事実についての逮捕勾留中に、その身柄拘束状態を利用して乙事実の取調をすることは許されないことになるけれども、他方において、令状主義、事件単位の原則をあまり厳格に貫くときは、被疑者が被疑事実ごとに何回にもわたつて逮捕勾留されて長期間身柄の拘束を受け、かえつて被疑者にとつて不利益になる場合が考えられること、刑法の併合罪の規定に鑑み甲、乙両事件を一度に取調べることが被疑者にとつて量刑上有利な場合があること、及び発展的流動的な性格を有する捜査の現実的必要性等を考慮して、実務上は逮捕勾留についての令状主義、事件単位の原則をある程度緩和しているのである。

このように、甲事実について別件逮捕勾留中にその身柄拘束状態を利用して乙事実につき被疑者を取調べることが適法であるか否かは、一義的に決し難い問題であり、憲法が要請している令状主義(司法的抑制)を基調として被疑者の身柄拘束のむしかえしや長期化の防止、被疑者が起訴された場合の量刑上の有利、不利、捜査の必要性等それぞれ相矛盾する側面を有する各要請との調和をはかりつつ具体的事案に応じて個別的に判断されなければならない。

(3) そこで、前記のとおり定義した別件逮捕勾留を主として、逮捕勾留後における甲事実、乙事実の取調の態様の面から次の三つの類型に分類して考察する。

(Ⅰ) 捜査官が甲事実についての逮捕勾留期間の全部、あるいはほとんど大部分を乙事実の取調に利用した場合(甲事実についても形式的に取調をしたけれども、それが乙事実の取調を正当化するための偽装にすぎず、実質的には全期間を乙事実の取調に利用したものと判断される場合を含む)、

(Ⅱ) 捜査官が甲事実についても実質的に取調をなし、残余の期間を乙事実の取調に利用した場合(最初に甲事実についての取調を完了し、残余期間を乙事実の取調に利用した場合のみならず、甲事実の取調と並行して乙事実の取調を行つた場合も含む)。

(Ⅲ) 捜査官が甲事実についてのみ取調べた場合

(4) (Ⅰ)の類型の別件逮捕勾留は、明らかに令状主義の法的制約を潜脱し捜査の便宜と必要性にのみ傾斜したものであつて、憲法三三条に違背し、その逮捕勾留自体が違法になるもの(いわゆる違法な別件逮捕)と解せられる。(従つて乙事実についての取調のみならず、甲事実についての取調も違法となる)。

(Ⅲ)の類型は、仮に捜査官が甲事実についての被疑者の逮捕勾留に際し、その身柄拘束状態を利用して乙事実につき取調べる意図を有していたとしても現実に甲事実についてのみ取調をしたに過ぎないから、右逮捕勾留は令状主義を潜脱するものとはいえず、(被疑者は現実に何らの不利益も蒙つていない)このような逮捕勾留は適法なものと考えられる、(但し、令状発付の段階において、捜査官が乙事実について取調の意図を有していると明らかに認められる場合に、令状を発付すべきか否かの点については、別途考慮すべき問題である)。

(Ⅱ)の類型は、(Ⅰ)と(Ⅲ)の中間的な類型であり、更に二つの類型に分類される。すなわち、

(Ⅱ)のイ、甲事実の取調により甲事実についての嫌疑あるいは、逮捕勾留の理由、必要性が消滅したにも拘らず、残余期間を乙事実の取調に利用した場合、

(Ⅱ)のロ、甲事実についての嫌疑及び逮捕勾留の理由、必要性が存続している時に、並行して乙事実について取調をした場合、

の二つである。

そして(Ⅱ)のイ、ロの類型の場合は、いずれも別件である甲事実について実質的な取調がなされているのであるから、(Ⅰ)の類型のように別件逮捕勾留自体及びこれに基づく甲、乙両事実の取調を包括的に評価して違法と断ずることはできないけれども、本件である乙事実の取調に要した残余の身柄拘束中、当該別件逮捕勾留の理由が存続していたかどうかはその取調の適否を判断するうえで次のような差異がある。すなわち、

(Ⅱ)のイの類型の場合には、甲事実による逮捕勾留を継続する実質的理由が消滅したのであるから、捜査官はただちに被疑者を釈放すべき義務があり、残余期間中における乙事実の取調は、後掲認容基準について判断するまでもなく、憲法三三条に違背し令状主義の法的制約を潜脱したものとして当然に違法になるものと解せられる。

これに対して(Ⅱ)のロの類型の場合には、甲事実による逮捕勾留の理由が存続しているのであるから、その身柄拘束状態を利用して乙事実を取調べたことの一事をもつて、ただちに当該取調を違法とすることはできないと考えられる。しかしながら、右逮捕、勾留が甲事実について令状裁判官の審査判断を経たにすぎないものである以上、捜査官が、甲事実の取調時間以外の残余の時間を、何の制約もなく自由に利用できるものでないことは、令状主義の理念に照して当然のことであり、そこには自ら別件である甲事実を基準とした本件(乙事実)取調の認容限度が存在するといわなければならず、その認容される限度内の取調は適法であるけれども、その限度を越えた取調は違法になるものと解すべきである。

そして、右取調の認容限度は、前述のとおり、令状主義を基調として、被疑者の身柄拘束のむしかえしや長期化の防止の要請、起訴された場合の被疑者の量刑上の有利、不利、捜査の必要性等との調和をはかりつつ個別的に判断されなければならないが、具体的には、客観的要素として(イ)乙事実について逮捕勾留の要件が具備していたかどうか(特に乙事実についての嫌疑の有無)(ロ)甲事実と乙事実の犯罪としての軽重の比較(ハ)甲事実と乙事実の関連性(ニ)甲事実による逮捕勾留中に乙事実を取調べることによつて被疑者が蒙る身柄拘束期間、将来の量刑等についての利益、不利益、主観的要素として、(イ)捜査官が本件を取調べるにつき令状主義による司法的抑制を潜脱する意図を有していたかどうか、(ロ)被疑者が乙事実につき、自発的、積極的に供述したかどうか等の各要素が、乙事実についての被疑者取調が甲事実についての逮捕勾留期間中において認容される取調の限度内のものであるか否かを判定する基準になるものと解せられる。

(5) そこで本件第一次逮捕勾留につき検討するに

① 被告人は、前記認定のとおり、大福信用金庫、尼崎信用金庫に対する詐欺の嫌疑で昭和四〇年一一月一日に逮捕され、勾留状の執行により、同月二日より同月一一日まで住吉署に勾留され、その間同月一日より同月六日までは、詐欺事件について取調を受け、同月七日以降同月一一日まで、強盗殺人事件について取調を受けたのである。ところで、住吉署に捜査本部を設置した大阪府警察本部捜査第一課小林班は、元々強力犯の捜査を担当しており、当初から堀川允子の失踪事件につき捜査をしていたのであり、詐欺を被疑事実として被告人を逮捕勾留するにあたつては、その身柄拘束状態を利用して、捜査が難航している堀川允子の強盗殺人事件等について被告人を取調べる意図を有していたことは明らかであるから、前述の定義に従えば、本件第一次逮捕勾留はいわゆる別件逮捕勾留に該当するものと解するのが相当である。

② 次に、前記分類に従つて、本件第一次逮捕勾留が前掲(Ⅰ)(Ⅱ)のイ、ロ、(Ⅲ)のいずれの類型に該当するかについて検討する、

(イ) 右詐欺事件は前記認定のとおり、捜査本部の警察官による被告人の尾行、及び立回り先への聞き込み捜査により発覚したものであり、尼崎信用金庫、庶務部勤務の宮本正好及び大福信用金庫理事長代理の大野富也作成の各被害届、及び同人らの司法警察員に対する各供述調書によれば、右宮本作成の被害届並びに同人の供述調書は第一次逮捕状請求(昭和四〇年一〇月二九日)前の同月六日に作成され、それらには「尼崎信用金庫が昭和三六年二月九日より昭和四〇年八月三一日までの間計九回にわたり、被告人から合計八万五、〇〇〇円を詐取された、」旨の記載がなされており、また大野富也作成の被害届並びに同人の右供述調書も同じく第一次逮捕状請求前である、同年一〇月五日に作成され、それらには「大福信用金庫が昭和三六年七月二六日から昭和四〇年八月二四日までの間に被告人から計一〇万円を詐取された旨の記載がなされていることが認められるから、これらの各被害届並びに各供述調書が第一次逮捕状並びに勾留状請求の重要な資料となつていたものと推認される。

(ロ) そして、前記認定のとおり、第一次逮捕勾留期間中、昭和四〇年一一月一日から同月六日までの六日間は専ら右詐欺事件の取調に費され、その間六通の被告人の司法警察員に対する供述調書が作成されている。

また、〈証拠〉によれば、右各詐欺事件は昭和三六年から昭和四〇年にわたる事件で、その間右各信用金庫では人事移動もあり、被告人の第一次逮捕以前には、右詐欺事件の関係者について十分な取調べはなされておらず、第一次勾留の期間である昭和四〇年一一月二日より同月一一日までの間、前記捜査本部の警察官は被告人の取調に並行して、尼崎信用金庫については、同月五日に同金庫社員布江庄三郎、同月八日に同松尾尚三郎をそれぞれ参考人として取調べて、同信用金庫が被告人から金員を詐取された旨の記載がある各供述調書を作成し、大福信用金庫関係については、同月四日に同金庫社員坂上陸郎、同高沢靖、同松井十四夫を参考人として取調べて、それぞれ同信用金庫が被告人から金員を詐取された旨の記載がある各供述調書を作成し、更に右勾留期間の満了日である同月一一日以後も引続き右詐欺事件の取調を続行して、尼崎信用金庫関係について、同月一二日に同金庫社員金田真一、山口祐三郎、黒坂時雄を参考人として取調べ、それぞれ、同信用金庫が被告人から金員を詐取された旨の記載がある各供述調書を作成し、検察官塚田善治は右勾留期間中である同月一〇日に右宮本正好、松井十四夫を取調べて、同人らの司法警察員に対する各供述調書とほぼ同内容の各供述調書を作成したことが認められる。

(ハ) 従つて、(イ)右、(ロ)の事実を総合すれば、被告人には第一次逮捕勾留当時右詐欺罪を犯したと疑うに足る相当な理由並びに逮捕勾留の理由、必要性があつたものと考えられ、捜査本部では、右詐欺事件について昭和四〇年一一月一日から同月六日まで六日間実質的に被告人並びに参考人を取調べたものと認められるから、第一次逮捕勾留が別件逮捕勾留の(Ⅰ)の類型に該当するということはできない。そして捜査本部では、同月七日以後同月一一日まで強盗殺人事件等について被告人を現実に取調べているから、(Ⅲ)の類型に該当しないことは勿論であり、また右詐欺事件について、警察段階における被告人の取調を完了した一一月七日以降も参考人については取調が終了しておらず、従つて未だ右詐欺事件についての勾留の理由が存続していたものと解せられるから(Ⅱ)のイの類型に該当するということもできず、結局本件第一次逮捕勾留は別件逮捕勾留の(Ⅱ)のロの類型に該当するものと考えざるを得ない、

(6) そこで前記(4)に掲げた具体的基準に従つて、別件詐欺罪による第一次逮捕勾留中における被告人に対する強盗殺人等(本件)についての取調が、第一次逮捕勾留中における取調の認容限度内の適法なものであるか否かについて検討する。

まず客観的な要素についてみると、

① 強盗殺人等について逮捕勾留の要件が具備していたかどうかの点(特に嫌疑の有無)については、警察官が強盗殺人容疑で被告人の取調を開始した昭和四〇年一一月七日当時は、堀川允子が行方不明になつた同年八月四日頃から既に三カ月以上経過していたにかかわらず同女の行方についての有力な手がかりを発見できず、捜査は難航していたのであり、捜査本部では、このように長期間行方不明であるからには、同女が監禁あるいは殺害されているのではないかとの漠然たる疑惑を抱いていたものの、被告人が堀川允子を殺害したと疑うに足るような十分な資料はなく、堀川允子殺害の容疑で裁判所に対し被告人の逮捕状、勾留状を請求してその発付を得ることは到底困難な状況にあつた。

② 詐欺事件と強盗殺人の犯罪としての軽重の比較、両事件の関連性については、本件強盗殺人事件は尼崎信用金庫、大福信用金庫に対する詐欺事件に比すれば、その法定刑、犯情において比較にならない程重大な事件であり、また右詐欺事件と強盗殺人事件の間には、何らの関連性も見出せない。

③ 第一次逮捕勾留中に強盗殺人等を取調べることによつて蒙る被告人の利益、不利益については、捜査本部の警察官は、第一次逮捕勾留期間中に五日間強盗殺人容疑で被告人を取調べて自白を得、その後その自白を資料として、今度は被告人を強盗殺人、死体遺棄容疑で逮捕勾留して更に取調を続行し、被告人は実質的には刑事訴訟法二〇八条が定めている勾留の期間二〇日間を超える二五日間強盗殺人容疑で勾留されたと同様の結果となり、一一月七日より同月一一日まで五日間の強盗殺人事件の取調べは被告人に不利益にこそなれ、利益になる点は何もなかつた。

次に主観的要素についてみると、

① 捜査官の意図については、捜査本部では、堀川允子の強盗殺人事件の初動捜査が遅れ、同女の行方不明後一カ月以上経過してようやく本格的捜査に着手したものの、捜査は難航し、あせりを感じていたのであり、被告人に対し強盗殺人容疑で逮捕状、勾留状の発付を得るに足る十分な資料はなかつたけれども、堀川允子の実兄平野安順の被告人が怪しい旨の報告、堀川允子の金銭出納簿等に同女が被告人に金を貸した旨の記載があること、被告人の身辺捜査の結果などから、被告人が堀川允子からの借金の返済に窮して同女を殺害したのではないかとの見込みをつけ、主として被告人の自白を得る目的で、第一次逮捕勾留を利用して強盗殺人容疑で被告人を取調べることになつたのである。

従つて、捜査本部の警察官が本件につき令状主義による司法的抑制を潜脱して被告人を取調べる意図を強く有していたことは明らかである。

② 被告人が自発的、積極的に自白したか否かについては、昭和四〇年一一月七日より同月一一日までの取調経過から判断して、被告人が自ら進んで捜査に協力し自発的に堀川允子に対する強盗殺人、死体遺棄の犯行を自白したということはできない。

すなわち、捜査本部の警察官は、同月七日午前中、犯行を否認している被告人に対し、同人が堀川允子を殺害した犯人であることを想定した質問事項によつてポリグラフ検査を実施し、同日午後以降住吉署内の畳敷きの幹部当直室で、三名の警察官において正座を強要する等して連日厳しく被告人を追求し、四日後の同月一〇日になつてようやく被告人の自白を得たのである。

(7) 以上の事実を総合して考えると、捜査本部の警察官によつて行われた、別件の詐欺を基礎事実とする第一次逮捕勾留期間中における強盗殺人等についての被告人の取調は、一面ではその目的手段方法に照しあまりに捜査の便宜、必要性の要請に傾斜しすぎたものであり、他面被告人にとつて何ら利益になる点がなく、憲法三三条が明言する令状主義に著しく違反するから、本件取調の認容限度を逸脱した違法な見込捜査であると断ぜざるをえない。

2 弁護人依頼権の侵害

(1) 憲法三四条は、「何人も理由を直ちに告げられ、且つ直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ抑留又は拘禁されない。」と規定し、公訴を提起されて被告人となつた者ばかりでなく、捜査官に対して弱い立場にある公訴提起前の身柄拘束中の被疑者についても、自己が身柄を拘束される原因、防禦すべき対象を知り、更に弁護人を依頼して実質的に防禦権を行使する権利を保障しており、刑事訴訟法も右憲法の規定を受けて、被疑者が十分に自己の防禦権を行使できるように、被疑者段階における弁護人選任権(同法三〇条)と被疑者と弁護人の接見交通権の保障(同法三九条)を定め、捜査官が被疑者を逮捕するに際しては、逮捕状を示し(同法二〇一条)、犯罪事実の要旨及び弁護人を選任することができる旨を被疑者に告知して弁解の機会を与えることを要求し(同法二〇三条、 二〇四条)、勾留に際しても、被疑事件を告げてこれに関する陳述を聴くことを要求し(同法六一条、 二〇七条)、捜査官が被疑者より弁護人選任の申出を受けた時は、直ちにその指定した弁護士又は弁護士会にその旨通知しなければならない(同法七八条、 二〇七条、 二〇九条)として、被疑者の防禦権を保障するための制約規定を設けているのである。

(2) ところで、本件においては、前記認定のとおり、捜査本部の警察官は、第一次逮捕勾留期間中、昭和四〇年一一月一日より同月六日までは詐欺につき被告人を取調べたが、同月七日に至り突如として強盗殺人容疑で被告人を取調べようとしたため、被告人は佐々木哲蔵弁護士を弁護人として選任したい旨申し出たところ、捜査本部の警察官は、同弁護士が大阪弁護士会に所属していることを熟知しており、かつ被告人の右申出の趣旨を十分理解しながら、同弁護士あるいは大阪弁護士会に対し、右申出について何らの通知もしなかつたのであつて、右警察官の行為が、刑事訴訟法七八条、 二〇七条、 二〇九条に違反することは明らかである。

そして、第一次逮捕勾留中における強盗殺人事件の取調は前述のとおり別件逮捕勾留期間中の取調であつて、被告人は、第一次逮捕勾留に際して、詐欺事件について犯罪事実の要旨及び弁護人選任権の告知を受けていたにすぎず、同年一一月七日に捜査本部の警察官から「今後堀川允子の殺人容疑で取調べる。」と告げられるまでは、強盗殺人事件についての防禦の準備は全くできていなかつたものと考えられ、しかも、右強盗殺人事件は第一次逮捕勾留の基礎となつた詐欺事件とは比較にならない重大事件であり、強盗殺人容疑の取調に切り替えられたのが第一次逮捕勾留により被告人が六日間も身柄を拘束された後であることを併せ考慮すれば、取調が詐欺から強盗殺人に切り替えられた右一一月七日以後の段階における被告人の防禦権(特に弁護人依頼権)は前記憲法、刑事訴訟法の各規定の趣旨に照らし特に強く保障されることが要請されていたものというべきであつて、前記のとおり被告人から佐々木弁護人選任の申出があつたにもかかわらず、同弁護士あるいは大阪弁護士会に全く通知することなく行われた一一月七日より一一月一一日までの強盗殺人事件の取調は被告人の弁護人依頼権ひいては防禦権を著しく侵害してなされたものといわざるをえない。

(3) もつとも、〈証拠〉によれば、被告人は昭和四〇年一一月一日の第一次逮捕に際しては司法警察員から、同月二日の第一次勾留に際しては検察官及び勾留裁判官からそれぞれ犯罪事実の要旨と弁護人を選任できる旨の告知を受け、また同月一五日の第二次逮捕及び同月一七日の第二次勾留に際しても、同様に司法警察官、検察官及び勾留裁判官から、それぞれ犯罪事実の要旨と弁護人を選任できる旨の通知を受けながらいずれも弁護人選任を希望しなかつたことが認められ、更に本件記録に徴すれば、被告人は起訴後当裁判所の弁護人選任の照会に対しても被告人から同年一二月九日付で弁護人選任不要の回答をなし、当裁判所は本件公判審理に先立ち、昭和四一年一月二七日弁護士宮崎秀夫を国選弁護人に選任したことが認められるが、右各事実が認められるからといつて、昭和四〇年一一月七日の段階で被告人が弁護人依頼の意思を有していた旨の前記認定をくつがえすことはできないし、また被告人に対して防禦権の保障が全うされていたということもできない。

すなわち、昭和四〇年一一月七日は捜査が詐欺から強盗殺人に切り替えられた重要な時点であり、その段階で被告人が「堀川のことで聞くのだつたら何故証拠をそろえて殺人容疑で逮捕して調べないのか。それでなかつたらいわない。佐々木哲蔵を呼べ」といつたことは、言葉は乱暴であるけれども、追いつめられた被告人が弁護人の助力を求める言葉として真実性を有しているものと考えられ、しかも被告人の右言葉を聞いた帰山主任も、被告人が弁護人選任の申出をしたものと理解して上司である小林警部にその旨報告しているのであるから、被告人は右一一月七日の段階では弁護人選任の意思を有していたものと認めるのが相当である。

そして、第一次逮捕勾留の段階においては、被告人は前述のとおり、詐欺事件についての犯罪事実の要旨しか告知されていなかつたのであるから、その段階で被告人が弁護人の選任を依頼しなかつたからといつて、被告人が強盗殺人事件の取調についても弁護人の選任を依頼しない意思であつたと解することはできず、また本件強盗殺人の取調において被告人が最も弁護人の助力を必要としたのは、取調が詐欺から強盗殺人に切り替えられた一一月七日から、被告人の司法警察員に対する最初の自供調書が作成された同月一一日までの間であつたと考えられるから、それ以後の段階において被告人が弁護人選任を希望していなかつたからといつて、第一次勾留中の強盗殺人事件の取調について被告人の弁護人依頼権の保障が全うされていたということもできない。

3 取調方法の適否

前記認定のとおり、帰山次夫、実原昇、柴田昇の三名の警察官は、他に取調室があるにもかかわらず、住吉署の二階の畳敷の幹部宿直室に毛布を一枚敷き机を挾んで被告人と対座し、犯行を否認している被告人の取調を行い、取調中被告人に正座を強要したこともあつたのであるから、その取調方法は妥当なものではなかつたといわなければならない。

なお、同月一〇日の夕方、警察官は被告人に対し堀川允子の四つ切り写真を見せたところ、被告人は、おとなしくなりその後犯行を自白し始めたのであるが、捜査の方法として被害者の写真を被告人に示すことは別段不当なことではなく、第二〇回公判調書中の被告人の供述部分によれば、被告人自身も「写真を見せられて自供する気になつたのでない。ただいい気持はしない。」旨供述しているにすぎないから、堀川允子の写真を被告人に見せたこと自体が不当な捜査方法であるということはできない。

4 憲法三八条一項、二項の関係

(1) 憲法三八条一項は「何人も自己に不利益な供述を強要されない。」と規定し、同条二項は「強制、拷問若しくは脅迫による自白、又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。」と規定している。

そこで、右憲法三八条一項、二項の趣旨並びに両者の関係につき考察するに、憲法三八条は条文の位置関係からみて同法三一条の適正手続の保障を具体化した規定と考えられるが、歴史的にみると、同法三八条一項の自己に不利益な供述を強要されない権利は官憲の暴虐行為から個人の自由を保護する機能を有していたものであり、二項の規定する自白法則は虚偽の自白を排除する機能を有していたものであつて、右一、二項はその沿革を異にしている。

しかしながら、法の解釈にあたつては、その沿革を考慮することももとより重要であるけれども、一国の憲法、法律制度全体の構成から考察して、その条文が全体の法体系の中で如何なる位置を占めているか、また全体の法体系の中で如何なる機能を営ませるのが妥当であるかを考慮することもまた重要なことであると考えられる。

(2) そこでまず憲法三八条一項について考えてみると、現行の憲法、刑事訴訟法の下においては、刑事裁判は弁護人の立会の下に公開の法廷で行われ(憲法三七条、八二条)、被告人は一方の当事者として取扱われ証人適格はないとされているのであるから、被告人が公判廷において自己に不利益な供述を強要されるおそれはほとんどないといつてよいのに対し、捜査段階においては、捜査官が被疑者を逮捕すれば七二時間身柄を拘束することができ、さらに勾留状が発せられれば二〇日身柄を拘束できるものとし(刑事訴訟法二〇三条、 二〇四条、 二〇八条)、勾留の理由の中には罪証隠滅のおそれ(同法六〇条一項二号)が含まれており、しかも捜査官は被疑者を代用監獄(監獄法一条三項)に勾留して必要に応じて取調べることができ(刑事訴訟法一九八条一項)、被疑者と弁護人の接見についても捜査のため必要があるときはその日時、場所及び時間を指定できるものとし(同法三九条三項)、反面、被疑者段階における保釈の制度を設けていないのであるから、現実の捜査の運用が被疑者の身柄を拘束して自白を獲得することに傾きがちになるのも自然の成行といわなければならない。

このような捜査の構造に鑑み、憲法三三条に規定する逮捕勾留における令状主義は、裁判官の判断によつて、単に捜査の行きすぎを抑制し、被疑者の身体的自由を保護する機能ばかりでなく、同時に逮捕、勾留の要件(特に犯罪の嫌疑)の不十分な被疑者に対する逮捕状、勾留状の請求を却下することによつて、そのような被疑者の身柄を拘束して被疑者にとつて不利益な供述を得ようとする捜査の方法を抑制し、被疑者の自己に不利益な供述を強要されない権利を保護するものとして現実に機能しているものと考えられ、また身柄拘束中の被疑者の弁護人依頼権の保障(憲法三四条、刑事訴訟法三〇条、 三九条)は、被疑者から依頼を受けた弁護人が、身柄拘束中の被疑者や関係者と面接して事情聴取し、それに基づいて被疑者に有利な資料を収集して裁判所に対して被疑者の勾留取消を請求したり、将来の公訴提起に備えて準備する等の積極的活動をすることによつて被疑者の防禦権を実質化する機能(防禦権の積極的側面)を有しているとともに、右身柄拘束中の被疑者との面接等に際し、被疑者に対して法律の専門家としての立場から助言を与えたり、精神的援助を与える等して、被疑者が身柄拘束中捜査官によつて自己に不利益な供述を強要されない権利を保障する機能(防禦権の消極的側面)をその重要な一面として有しているものと考えられる。

以上の考察によつて明らかなように、憲法三八条一項の自己に不利益な供述を強要されない権利は、被告人段階よりも、むしろ被疑者段階において実質的に保障さるべき重要性をもつているということができる。

(3) 次に憲法三八条二項について検討するに、

まず、一般論として、仮に、被疑者の同条一項の権利を侵害するような違法な捜査方法によつて、被疑者の供述調書(自白)が作成されたと仮定した場合に現行の法体系の下で生ずる諸々の法律問題について考察すると、

これを違法な捜査方法という観点からみると、刑法には、職権濫用罪等の諸規定(同法一九三条、 一九四条、 一九五条)が設けられており、現在それら刑罰規定が適正に運用されているかどうかの問題は別にして、捜査の行きすぎについては、まず右刑法の諸規定の適正な運用によつて捜査の公正をはかつてゆくのが本筋であり、その方向で一層の努力がなされるべきものと考えられる。

さらに見方を変えて、自己に不利益な供述を強要された被疑者の立場という観点からこれを見ると、なるほど被疑者は国に対し国家賠償、刑事補償、被疑者補償などの制度により一定の要件が備われば金銭的賠償あるいは補償を請求できる制度になつているけれども、右はいずれも金銭的な事後救済にすぎず、救済の範囲も限られているから、もしこのようにして得られた被疑者に不利益な供述が裁判における証拠として許容されることになれば、被疑者の自己に不利益な供述を強要されない権利の保障は画餅に等しいという不合理な結果を招来することになるから、憲法三八条一項の権利を実質的に保障するためにはどうしても右権利を侵害して得られた供述を裁判における証拠から排除することが不可欠の要件となつてくるのである。

従つて、以上のように、現行の憲法、刑事訴訟法その他の法体系の全体の構成からみると、沿革の問題はともかく、憲法三八条二項は、同条一項の自己に不利益な供述を強要されない権利保障の規定を受けて、一項に違反する自白は裁判における証拠としての許容性を欠くことを明らかにし、一項に規定する自己に不利益な供述を強要されない権利の保障を実質的に担保することとし、更に刑事訴訟法三一九条一項は、右憲法三八条二項を受けて自己に不利益な供述を強要されない権利を侵害して得られた自白を「任意にされたものでない疑のある自白」として裁判における証拠として許容しない旨を明らかにしたものと解するのが現行の憲法、刑事訴訟法の下における合理的な解釈であると考えられる(憲法三八条二項にいう「強制、拷問、若しくは脅迫による自白、又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白」とは、自己に不利益な供述を強要されない権利を侵害して得られた自白について典型的なものを例示したものであり、刑事訴訟法三一九条一項は憲法三八条二項の確認的な規定と解する)

(4) そして、自己に不利益な供述を強要されない権利を侵害して得られた自白であるか(従つて刑事訴訟法三一九条一項にいう任意性に疑いのある自白かどうか)の判断にあたつては、その基本規定である憲法三一条の適正手続の保障の精神が十分に考慮されるべきところ、本件第一次勾留中に作成された被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月一一日付供述調書は、前説示のとおり被疑者の憲法三八条一項の権利を実質的に補完する機能を営んでいる逮捕勾留についての令状主義及び弁護人依頼権の保障に違反して強盗殺人事件について十分な嫌疑がない被告人を不当な取調方法により取調べた結果得られた自白を内容とするものであつて、このような経緯で作成された右供述調書は、刑事訴訟法三一九条一項にいう「任意になされたものでない疑のある自白」に該当し、同条項及び憲法三八条二項により刑事裁判における証拠能力を欠くものと解するのが相当である。

(三)  第二次逮捕勾留中に作成された被告人の供述調書の証拠能力

前記認定のとおり、被告人は、強盗殺人、死体遺棄の犯行を自白した後の昭和四〇年一一月一五日右強盗殺人、死体遺棄の嫌疑による逮捕状の執行(第二次逮捕=令状発付日は同月一一日)をうけ被告人の司法警察員に対する供述調書二通が作成され、さらに被告人は同月一七日同嫌疑により勾留(第二次勾留)され、同日より同年一二月六日(勾留延長期間の満了日)までの二〇日間に強盗殺人、死体遺棄事件に関して被告人の司法警察員に対する供述調書四通及び検察官に対する供述調書一通が作成されている。

ところで、第一次勾留中に作成された被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月一一日付の前掲供述調書は、前に説示したとおり公判における証拠として許容されないのみならず、すべて司法審査の判断資料としての許容性を欠如するものと解すべきところ、本件第二次逮捕状請求書の添付資料(刑事訴訟規則一四三条)としては右供述調書以外に被告人と堀川允子の死との間に結びつきがあると疑わせる資料が添付されていたと認めるに足る証拠はないから、結局被告人には刑事訴訟法一九九条一項にいう罪を犯したと疑うに足りる相当な理由がなかつたにも拘らず、担当警察官において逮捕状発付の判断資料として許容されない右供述調書に基づいて第二次逮捕状の発付を得てこれを執行し、その身柄拘束中に警察官が被告人を取調べて前記二通の被告人の司法警察員に対する供述調書を作成したのであるから、右各供述調書はいずれも不法拘禁中に作成されたものであり、そのうえ右自白は第一次勾留中に作成された自白調書を基礎にして同一犯罪事実につき継続して取調べられた結果得られたもので、これを不可分的に一体として評価すべきであり、従つて第一次逮捕勾留中になされた本件取調の瑕疵は第二次逮捕中に作成された自白調書にも及ぶものと解すべきであり、更に右第二次逮捕に引続いてなされた第二次勾留についても、勾留状請求書の添付資料(刑事訴訟法一四八条)中、被告人と堀川允子の死との結びつきを疑わせる資料は、いずれも勾留状発付の判断資料としての許容性を欠く第一次勾留、第二次逮捕中に作成された合計三通の供述調書だけであつたと推認されるから、第二次勾留もまた刑事訴訟法六〇条、 二〇七条にいう罪を犯したと疑うに足る相当な理由がないのに拘らず勾留状の発付を得、被告人を取調べて前記の司法警察員に対する供述調書四通及び検察官に対する供述調書一通を作成したのであるから、右各供述調書はいずれも不法拘禁中に作成されたものであるうえ、右自白も第一次勾留、第二次逮捕中に作成された自白調書を基礎にして同一犯罪事実につき継続して取調べられた結果得られたもので、前同様不可分的に一体として評価すべきであつて、第一次逮捕勾留中になされた本件取調の瑕疵は右第二次勾留中に作成された自白調書にも及ぶものと解すべきであるから、第二次逮捕勾留中に得られた前記の被告人の司法警察員に対する供述調書六通並びに検察官に対する供述調書一通もまた公判における証拠能力を欠くものと解するのが相当である。

(四)  結論

以上のとおり、第一次勾留中に作成された被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月一一日付供述調書及び第二次逮捕勾留中に作成された被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月一五日付、同月一六日付、同月二〇日付、同月二二日付、同月二九日付、同年一二月一日付各供述調書、及び検察官に対する同年一二月三日付供述調書はいずれも証拠能力を欠くものであるから、本件強盗殺人、死体遺棄事件の証拠から排除するのが相当である。

二自白等

第一次勾留、及び第二次逮捕勾留中に作成された被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書(自白)の証拠能力がないことは前記認定のとおりであるが、被告人の昭和四〇年一一月一五日付弁解録取書によれば、被告人は第二次逮捕に際し、住吉署において司法警察員小林史朗から本件公訴事実(強盗殺人、死体遺棄)とほぼ同趣旨の逮捕状記載の犯罪事実を読み聞かされ、「堀川に返済する金に困り、いつそ殺してしまえば払わなくても済むと考え、八月三日の晩堀川をドライブに行こうと誘つて、六甲山中で首を絞めて殺しました、そして死体を山の中に捨てたことは間違いありません。」と述べ、また、検察官作成にかかる被告人の同月一七日付弁解録取書によれば、被告人は同日検察官塚田善治から前記本件公訴事実とほぼ同趣旨の司法警察員送致書記載の犯罪事実を読み聞かされ、「その通り、堀川に返済する金に困り、同女を殺害したうえ六甲山中に捨てたことは間違いありませんが、私の記憶では返さなければならぬ金は三〇万円ではなく二〇万円位であつたと思つております。」と述べ、更に大阪地方裁判所書記官作成の被告人勾留尋問調書によれば、被告人は右強盗殺人、死体遺棄の嫌疑により同検察官から同裁判所裁判官上田耕生に対して被告人の勾留請求がなされた際、同裁判官から同じく前記公訴事実とほぼ同趣旨の勾留状請求書記載の被疑事実の要旨を読み聞かされ、「事実はそのとおり間違いありません。」と述べ、いずれも本件犯行を自白していることが認められる。

そして、被告人が第二回公判廷において陳述した、同人作成の昭和四一年二月一一日付上申書には、「昭和四〇年六、七月頃、難波新地の四海楼パチンコ店で会つた篠(又は篠原)という男と話し合い堀川允子を含めてドライブに行くことを思い立ち、同年八月三日の午後七時すぎ、篠に「自分は一足先に行つて待つている、友人が自動車で迎えに行くから同乗して六甲山頂の山頂ホテルに来るように」との文面の手紙を持たせて堀川方に行かせ、K・Y・Kの喫茶店で待つていると、篠はもう一人の男と堀川の三人で来た。被告人は篠という男に三万円渡して「堀川允子との邪恋を清算したい。一〇日か一五日間自分の面前より連れ去つて欲しい。」と頼んだ。被告人は阿倍野で堀川らと別れて清和園へ帰つた。同月五日の朝九時頃、南海電車難波駅の西側にあるフローラ喫茶店で篠に会つた時、同人は「その日は六甲山頂まで行つておきながら始末はせず、その夜はホテルで適当に過した。そして翌朝に処分した。」といつて堀川の定期と身分証明書が入つた定期入れを証拠の品として被告人に渡した。被告人は、篠から堀川を殺害した状況などを聞き、「殺せといつた覚えはない。」といつて篠をなじつた。そして同人に堀川允子を捨ててきた六甲山頂付近の見取図を書かせ、同人に更に六万円渡した。」旨の前記自白に一部符合する被告人に不利益な供述が記載されていることが認められるが、その後公判廷において被告人は終始右犯行を否認していることは本件記録上明白である。しかしながら、右弁解録取書二通、勾留尋問調書一通掲記の各自白は、前記認定のように違法な自白採取過程において証拠能力のない被告人の前掲各供述調書が順次作成された渦中において録取されたものであり、かつ公判審理の段階では被告人は当初前記上申書記載のように本件犯行を否認しているのか、一部自認(捜査段階の自白と一部符合)しているのか、いずれとも決し難い支離滅裂な供述をなし、その後右犯行を終始否認していることに徴し、右自白の信用度は低いものといわなければならない。

三自白等の信用性及び補強証拠の存否

そこで、被告人の右自白等の信用性及びその真実性を裏付ける十分な補強証拠が存在するか否かの点について順次検討する。

(一)  死体発見の経緯

堀川允子の死体発見の経緯について、検察官は「昭和四〇年一一月一〇日夜、住吉署において司法警察員帰山次夫が被告人を取調中被告人が犯行を自白して堀川允子の死体遺棄現場を図示した略図(第一の略図)を作成した。そこで翌一一日午後〇時過ぎ頃から班長小林史朗の指揮で、大阪府警察本部及び住吉署の警察官が右略図に基づき図示の場所を捜索したところ、捜索に着手してわずかに一〇分から一五分を要したのみで右略図記載の場所から堀川允子の死体を発見した。第一の略図はその後紛失したが、同日死体発見の報告が住吉署になされる以前、住吉署において、帰山次夫が被告人に第一の略図と骨子において同一である略図(第二の略図)を書かせ、これを昭和四〇年一一月一一日付の被告人の司法警察員に対する供述調書の末尾に添付しており、堀川允子の死体発見は被告人が同月一〇日に作成した第一の略図に基づいてなされたものである。」と主張し(論告要旨第一、二(2))、これに対して弁護人は、「同月七日本件現場の大月地獄谷を登山していたハイカー鎌谷照夫は、同所で、堀川允子の住所氏名が書かれている高島屋御依頼品お届票と「清和園堀川允子」と記入された読売新聞領収証在中の堀川允子のハンドバッグを拾得し、これを宝塚駅前の交番に届けているから、捜査官は被告人が第一の略図を書いた同月一〇日以前にあらかじめ死体の位置を知り、被告人を無理矢理誘導して第一の略図を書かせた。右略図は現場へ行つていない者が書いた地図であることが一見して判るあいまいなものであり、現場への案内図として証拠に用いるには無価値なものであつたので、捜査官はこの第一の略図に基づき現場に行き死体を発見したことにし、次に、第一の略図を手直しするという口実のもとに現場の状況を具体的に指示して第二の略図を書かせたうえ第一の略図を破棄し、何喰わぬ顔をして、第二の略図が死体発見の端緒になつたものであるとして被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月一一日付の自供調書の末尾に添付したのである。」と反論している(弁論要旨第二(六)(七))。

1、助川義寛作成の鑑定書によれば、神戸市東灘区住吉町無番地通称大月地獄谷で発見された白骨死体は堀川允子の死体であることが認められ、第九回公判調書中の証人帰山次夫の供述部分、第二〇回及び第二一回の二各公判調書中の被告人の各供述部分によれば、被告人は昭和四〇年一一月一〇日午後一〇時過ぎ頃第一の略図を作成して帰山次夫に手渡したこと及び同日は時刻が遅くなつていたので被告人の同日付供述調書は作成されず、翌一一日に帰山が一〇日に作成したメモに基づいて同日付で被告人の一一月一〇日の供述を内容とする供述調書が作成され、その末尾に同日被告人が作成した第二の略図が添付されたことが認められる。

2、そこで、第一の略図と堀川允子の死体発見の関連性並びに右死体発見に至るまでの経過につき検討するに、

① 第一一回公判調書中の証人小林史朗の供述部分によれば、大阪府警察本部捜査第一課三班班長として本件捜査を指揮した同証人は「昭和四〇年一一月一〇日午後一〇時頃帰山から「荒木がようやく自供した。死体は六甲山中に捨てた」という自供があつた旨の報告があり、その時帰山が被告人がザラ紙に鉛筆書きした第一の略図をもつてきたのでその略図を受取り明日現地へ行つて捜索しようじやないかということになり、翌一一日午前一〇時に三班(小林班)班員である辻、落合、片岡、三好、栢木と住吉署員の合計一〇名位が二台の自動車に分乗して右略図を頼りに六甲山に向い同日午後〇時一〇分か一五分頃現場付近に到着し、茶店の前の広くなつている所に自動車を停め、手分けして谷間に死体を捜しに入らせた。自分は谷間沿いに右の方に分れている道を辿つていき、それを二、三〇メートル登つたところで谷間沿いの右の方に一メートル足らずの幅の山道があつたので、その道に沿つて熊笹を分けながら見ていつた。すると山道に入つて一〇メートル余りのところで谷間の一〇メートル位下の斜面のところに紺か花紺の風呂敷のようなものが見えたので、近くを捜していた片岡刑事に「あれは何か見てこい、」と命じると同人はすぐそれに応じて谷間の熊笹を分けながら下つてゆき間もなく「班長これです。ありました。」という声がしたので、捜査員を集めて堀川允子の死体が遺棄されている現場へ降りていつた。降りてみると紺の風呂敷のように見えたのは堀川允子のレースのスーツだつた。現場付近に到着して一〇分か一五分までの間に死体を発見した、」旨供述しており、同公判調書中の証人片岡義盛の供述部分、第三〇回公判調書中の証人落合敏則の供述部分によれば、小林班班員として、右小林とともに六甲山に赴いた同証人らは、前記小林史朗とほぼ同趣旨の供述をしていることが認められる。

② そこで、右小林、片岡、落合の公判廷における各供述部分の信用性につき検討するに、

イ、もし、検察官主張のように、被告人が作成した第一の略図に基づいて警察官が堀川允子の死体を発見したというのであれば、被告人がいかなる略図を書いたかが、裁判における重要な決め手となるのであり、第一の略図は被告人と堀川允子の死体発見を結びつける最も重要な資料であるといわなければならない。

ところが、前記小林史朗、片岡義盛、落合敏則の公判廷における各供述部分によると、同人らはいずれも「第一の略図は現場に持つていつたが、その後紛失し、現在どこに行つたか判らない、」旨供述しているのであり、しかも、捜査本部の警察官がその紛失に気付いた時点について、証人帰山次夫は当公判廷(第四二回、第四三回公判)において、「昭和四〇年一一月一七日に検察官に勾留請求してもらつた日に書類を点検して第一の略図がないことに気付いた。第一の略図は死体発見の経緯の復命書についていると思つていたので書類をずつと点検していつたところ、渡しておいた地図がついていないので山崎係長に『どうしたのか』と聞くと同人はびつくりしていた。小林班長に『地図がついてないがどうしましよう。』といつたところ、『今更ないものは仕方がない。一一日の調書にちやんと第二の略図がつけてあるんだからそれでいい、』ということだつた、」旨供述しているに対し、第一一回公判調書中の証人小林史朗の供述部分によると、同証人は「昭和四一年四月一日付で大阪府警察本部捜査第一課から西成署に転勤した後になつて初めて山崎係長からの連絡で第一の略図がなくなつたことが公判で問題になつているらしいと聞いた。」旨右帰山の供述と異る供述をし、更に同公判調書中の証人片岡義盛の供述部分によれば、小林班員である同証人は「昭和四二年二月頃でしたか、当時被告人を調べた帰山刑事が、本件裁判が証人に出て、第一の略図がないと聞いた。」旨供述し、第一七回公判調書中の証人三好咲一の供述部分によれば、同じく小林班員であつた同証人も右片岡とほぼ同趣旨の供述をしていることが認められる。

このように、捜査に十分習熟しているはずの大阪府警察本部捜査第一課所属の警察官が本件の重要な物証である第一の略図を死体発見現場において紛失したということ自体まことに不可思議なことであり、また捜査本部の警察官が右略図の紛失に気付いた時期についても平素行動を共にしているはずの右警察官らの間でまちまちであることは不自然であるというほかない。

ロ、さらに、小林史朗、片岡義盛、落合敏則の前掲各供述部分によると、「小林らは昭和四〇年一一月一一日午後〇時一〇分か一五分頃六甲山の死体遺棄現場付近に到着して捜索を開始し、僅か一〇分か一五分後に班長小林史朗自身が死体遺棄現場真上の山道から約一〇メートル位下の斜面に落ちていた堀川允子の死体に付けていた紺色のレースのスーツを見つけ、それによつて同女の死体を発見した、」というのである。

しかしながら、司法警察員作成の実況見分調書によれば、死体遺棄現場は、神戸市東灘区住吉町無番地付近の石畳の坂道わきにある電柱から、山道を東に二七メートル入つた地点から、傾面の急な南側の谷を七、七メートル下つた六甲山中であり、死体発見当時、付近には晩秋とはいいながら熊笹その他の草木が相当繁茂しており、しかも堀川允子の死体は落葉や枯木にうずもれるような状態で横たわつていたもので、その死体の上に枯枝や落葉がかなり覆いかぶさつていたことが認められ、また死体が発見されたという一一月より、更に付近の草木の繁茂状況が少いと思われる一二月一九日に本件現場を検証して作成された昭和四四年一月六日付証拠調調書には「死体発見現場真上の石切道より、死体発見位置までの傾斜面は四〇度の勾配で同斜面には熊笹、すすき類の草竹が人の腰部の高さまで叢生しているため、石切道からは死体発見位置は容易に確認できないが、同位置を指示する片岡証人の上半身は認められた、」旨記載されているから、これらの事実に照らすと、成程、堀川允子の死体が着用していたレースは鮮かな紺色であるけれども、初めて同所に行つた者が前記小林、片岡、落合の供述にあるような短時間で、簡単に死体を発見できるかどうか疑問が残るといわなければならない(前記小林史朗の供述部分によれば、同人は自動車を降りた後、ほぼまつすぐに死体遺棄場所に向つていることになる。)

ハ、A、第一六回公判調書中の証人鎌谷照夫の供述部分、同人の司法巡査に対する供述調書、司法警察員作成にかかる昭和四〇年一一月一八日付、及び同月二五日付各捜査復命書、白皮製ハンドバッグ一個(昭和四一年押第一九六号の二二)、ご依頼品お届票(同号の二三)、読売新聞領収証(同号の三一)によれば次の事実が認められる。

大阪市福島区所在の日本出版株式会社大阪支店海老江営業所社員鎌谷照夫は昭和四〇年一一月七日(前記認定のとおり、捜査本部の警察官が被告人を強盗殺人事件の容疑者として取調を開始した日)、職場の同僚二名とともに、神戸市東灘区御影から大月地獄谷を通つて六甲山に登山していた際、死体遣棄現場付近所在の凌雲荘の、神戸の街に面した側の真下一〇〇メートル位のところの草むらで堀川允子の住所氏名を書いた高島屋御依頼品お届票及び「清和園堀川允子」と記載された読売新聞の領収証在中の堀川允子所有のハンドバッグ一個を発見してこれを拾得し、同日午後四時頃、六甲山からの帰り途、国鉄福知山線宝塚駅前派出所に右ハンドバッグを届けようとしたが、あいにく、同派出所勤務の松原久巡査が不在であつたため、派出所隣りのカメラ屋の女主人に事情を話し、ハンドバッグを派出所内の机の上に置き、紙に拾得場所を「六甲山凌雲荘下一〇〇メートル」と記載し、自分の住所氏名を記載して帰宅した。その後同月九日に、宝塚警察署から鎌谷に対し、書面で拾得物を受理した旨の通知があつた。ところが、その後になつて、堀川允子の死体発見を報ずる記事が新聞に掲載されたので、鎌谷はそのハンドバッグが堀川允子のものであると直感し、詳しく新聞記事を調べたが、ハンドバッグのことは何も記載されていなかつたので、同月一四日午前一〇時頃、宝塚署に電話し、「私が届けたハンドバッグは殺された保母さんのものと違うか。」という趣旨のことを述べたところ、応待に出た同署会計係竹原隆房は、「御丁寧にありがとう、」というだけで何か要領をえない態度だつた。同月一八日になつて、大阪府警察本部捜査第一課所属の警察官が鎌谷方を訪れたので、鎌谷は右警察官とともにハンドバッグの拾得現場に赴き、ハンドバッグの拾得位置を指示した。

なお、同月七日から同月一四日までの間、警察から鎌谷に対し、ハンドバッグの拾得場所はどこかと調べに来たり、電話で問合せてきたことはなかつた。

以上の事実が認められる。

B、そこで、引続いて、捜査本部の警察官が、右ハンドバッグが堀川允子のものであることを何時知つたかについて検討するに、第一五回公判調書中の証人松原久の供述部分によれば、昭和四〇年一一月七日当時、宝塚駅前派出所に巡査として勤務していた同証人は、「一一月七日午後五時頃隣りのカメラ屋さんから、ハンドバッグと、拾得者の住所氏名及び拾つた場所を書いた紙を受取つた。ハンドバッグの中にはお金、財布、化粧品、爪切り、チリ紙等が入つていた。高島屋のお届伝票は見たが、うつかり見過し、翌八日宝塚署会計係に引継いだ。女の死体が六甲山で発見されたという、テレビ、新聞は見ていない。」旨供述し、第一六回公判調書中の証人竹原隆房の供述部分によれば、昭和四〇年一一月当時、宝塚署会計係をしていた同証人は「一一月八日松原久巡査からハンドバッグ及び同人が作成した拾得受理簿を受取つた。高島屋の依頼品お届票、読売新聞領収証などは点検せず倉庫に保管した。一一月一四日、鎌谷から「六甲山で私が拾つたハンドバッグは今朝の新聞に載つている人のものではないでしようか」との連絡を受け、ハンドバッグを倉庫から出してみたら高島屋の伝票がでてきたので大阪府警に連絡したところ、翌一五日にとりに来た。普段、新聞、テレビは見ておらず、六甲山で死体が発見されたといううわさも聞いていなかつた。」旨供述し、第一八回公判調書中の証人栢木義一の供述部分によれば、小林班班員であつた同証人は、「昭和四〇年一一月一五日宝塚署から堀川のハンドバッグが遺留されている旨連絡してきたので、小林班長の命により、自分と赤木淡三郎とが片岡巡査運転の自動車で宝塚署会計係へ行き、拾得物を点検して捜査本部へ持ち帰つた。」旨供述し、第一七回公判調書中の証人三好咲一の供述部分によれば、同じく小林班班員であつた同証人も、右栢木とほぼ同趣旨の供述をしていることが認められる。そして、司法巡査作成の押収品目録交付書には、右栢木が昭和四〇年一一月一五日宝塚警察署において、堀川允子の白皮ハンドバッグ等を押収した旨記載されており、司法巡査作成の拾得物品預り書及び拾得物処理票にも、右押収目録交付書の記載に添う記載がなされており、かつ、司法警察員作成の運転日誌には、死体が発見された日であるという、昭和四〇年一一月一一日以前に、当時小林班が使用していた二台の自動車が六甲山へ行つた旨の記載はなされていないことが認められる。

C、しかしながら、他方、〈証拠〉によれば、捜査本部では、昭和四〇年九月一六日付で、所持品に白皮ハンドバッグがある旨明示した、堀川允子の手配書六万枚を印刷して各警察に配布し、右手配書は宝塚署並びに前記宝塚駅前派出所にも配布され、松原久は、右ハンドバッグの届出前に右手配書を見ており、しかも六甲山中で拾得された物が宝塚署管内の派出所に届けられることは非常に稀であるうえ、松原久、竹原隆房は、警察に勤務している者として職務上、犯罪や、拾得物の所有者は誰であるかにつき、常に通常人以上に注意を払つているはずであるから、これらの事実に照すと右松原及び竹原の前記各供述部分はにわかに信用できないのみならず、前記運転日誌によれば、捜査本部の警察官が自動車で宝塚署へ右ハンドバッグを取りに行つたという昭和四〇年一一月一五日の走行場所の欄には、前記二台の自動車中一台は住吉→尼崎→住吉を走行し、もう一台は、住吉→大阪地検→南を走行した旨の記載があるにとどまり、宝塚署に赴いた旨の記載はないのであるから、右事実に照らすと、Bに掲げた各証拠があるからといつて、ただちに、捜査本部の警察官が、ハンドバッグ拾得の事実を知つたのは昭和四〇年一一月一五日であり、被告人が第一の略図を作成した同月一〇日当時には未だハンドバッグの拾得を知らなかつたと認定することはできない。

ニ、〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

小林ら約一〇名の警察官が六甲山に向つた昭和四〇年一一月一一日、住吉署に待機していた帰山次夫は、同日午後〇時二〇分ごろから午後四時一六分頃まで、被告人を取調べた。一方、小林史朗は同日午後〇時二〇分頃堀川允子の死体が遺棄されている場所に至り、直ちに片岡義盛の運転する自動車に乗つて六甲山ケーブル下の駐在所に赴き、その頃、住吉署の捜査本部に待機していた山崎警部補に電話で死体を発見した旨連絡し、山崎はただちに右事実を被告人の取調に従事していた帰山次夫に連絡した。被告人が第二の略図を作成したのは右連絡があつた後であつた。

以上の事実が認められる。

もつとも、第二八回公判調書中の証人帰山次夫の供述部分によれば、「同証人は被告人が留置場から出たのは確か午後〇時二〇分頃で、間もなく第二の略図作成にかかつて一〇分もあれば書き終つた。死体の発見を聞いたのは下書の清書をし、被告人からその調書末尾に添付する第二の略図を受取つて読み聞けが終つて、それから小休止して録音をとろうと準備しているとき、ドアを開けて山崎警部補がのぞいたので用事と感じて外へ出ると、同人から、「第一の略図のとおりのところから仏様が見つかつたぞ」と耳打ちされた。時間は午後三時ちよつと過ぎ位である、」と供述し、また同人は当公判廷(第四三回公判)において、「一一日に第一回の録音テープをとつたが、午後三時半頃にはテープは終つている。山崎係長から死体発見をきいた時は録音は終つているはずです。」と供述しているが、右供述は、いずれも、第九回公判調書中の同証人の「一一日の午後〇時三〇分か四〇分頃捜査本部の山崎係長から「仏みつかつた」との知らせを受けた。」旨の供述部分に照らしにわかに信用し難いものといわなければならない。

ホ、被告人作成にかかる吉益裁判長宛の手紙には「自供直後(昭和四〇年一一月一〇日午後一〇時三〇分過ぎ)に書き示した地図、ボールペン書き」として、阪急六甲駅付近から死体発見現場付近に至るかなり詳密な略図が記載されており、第二〇回公判調書中の被告人の供述部分によれば、被告人は「右略図は本当のことを書いた。一一月一〇日に右略図に近いような図面(第一の略図のこと)を書いた、」旨供述している。

しかしながら、第一一回公判調書中の証人小林史朗の供述部分によれば、同証人は「最初の地図は大ざつぱ。しかしポイントのところは詳しく書いていた。」旨供述し、第三〇回公判調書中の証人落合敏則の供述部分によれば、同証人は「第一の略図は一一月一〇日に見ている。調べる時に通常使うわら半紙質の悪い紙に鉛筆で書いた本当に簡単な略図だつたと思う。旨供述していることが認められるので、被告人が昭和四〇年一一月一〇日に作成した第一の略図は右被告人作成の吉益裁判長宛の手紙に記載されている略図よりはるかに簡単なものであつたことが推認されるから、右手紙の記載内容並びに、第二〇回公判調書中の被告人の前記供述部分はにわかに信用し難いものといわなければならない。

③ 従つて、右②イ、ロ、ハニ、ホの認定に照らすと、被告人が昭和四〇年一一月一〇日に作成した第一の略図に基づいて、翌一一日に堀川允子の死体が発見されたとする前記の小林史朗、片岡義盛、落合敏則の各供述部分はにわかに信用し難く、他に被告人が作成した第一の略図に基づいて堀川允子の死体が発見されたと認めるに足る証拠はない。

従つて、被告人の作成した第一の略図は、被告人の前掲自白の真実性を合理的に裏付ける証拠となりえないし、右死体発見当時及びその前後の諸事情よりみて、弁護人の指摘する「強制、誘導により第一、二の略図を含む一連の自白が採取された」疑いを払拭することができないものといわなければならない。

(二)  殺害の日時

起訴状記載の公訴事実によれば「被告人は昭和四〇年八月三日午後六時三〇分頃、堀川允子に対し「ドライブに行こう」といつて清和園アパートから誘い出し、氏名不詳者運転の自動車に同女と同乗し、同日午後八時三〇分頃神戸市東灘区住吉町西谷山六甲山一七八八番地の一一付近を走行中の車中で同女を殺害した。」というのである。

1、そして、〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

① 堀川允子は昭和四〇年八月三日午前八時三〇分頃、同女を訪ねてきた叔母藤沢正子とともに清和園アパートを出発し、大阪府堺市新在家所在の刃物仲買人山岡隆方を訪問した後、バスで五箇荘保育所へ向い、同日午後五時三〇分頃勤務を終えて同保育所を退出した。

② 堀川允子の婚約者田守義夫は同年八月三日の夕方(時刻は不明)勤務先からの帰途、南海線沢ノ町駅に電車が停車した際、同女が居室に戻つていたら立寄つてみようと考え、同駅から見える清和園アパートの同女の居室を眺めたところカーテンが閉つており、不在の様子だつたのでそのまま帰宅した。

③ 堀川允子の実兄平野安順は同月五日五箇荘保育所の保母木村から、「允子が四日に出勤せず、今日もでてこない。行き先を知らないか。」との電話連絡を受け、驚ろいて清和園アパートに赴き、合鍵を使用して同女の居室に入つたところ、玄関先の郵便受け下の下駄箱前の床に昭和四〇年八月四日付の朝刊、同日付の夕刊、八月五日付の朝刊が落ちており、室内の石油箱位の木箱の上に古新聞が同月三日付の夕刊を一番上にして置いてあつた。炊飯器には、三合位炊いたと思われる飯の真中から半分位が残つていた。

④ 堀川允子は几帳面な性格の持主で通常は毎晩家計簿をつけることを習慣としていたが、同女の家計簿(昭和四〇年押第一九六号の一)には同年八月二日分までしか記載されていない。

2、他方第一四回公判調書中の証人小森ヒサエの供述部分によれば、清和園アパートの管理人である同証人は「昭和四〇年初めの保育園から電話があつた日(昭和四〇年八月四日)の朝六時半頃、掃除のため階段を降りてゆくと、堀川允子の部屋から男の人が先に出て、次に堀川允子が出てくるのにバッタリ出会つた。その男は背が高く眼鏡をかけた男で被告人ではないと思つた、」旨供述し、右供述を覆えすに足る証拠はない。

3、従つて、右2、の小森ヒサエの供述部分に照らすと、前記1①②③④の事実が認められるからといつて、ただちに堀川允子が昭和四〇年八月三日の午後六時三〇分頃清和園アパートを出たものと推認することはできず、他に堀川允子が同年八月三日午後六時三〇分頃清和園アパートを出て同日午後八時三〇分頃被告人又は何者かによつて殺害されたと認めるに足る証拠はない。

(もし堀川允子が八月三日の晩小森ヒサエが目撃した男を清和園アパートの居室に泊めたのであれば、同女が同日家計簿に記帳する余裕がなかつたことは別に不自然ではなく、また同月四日朝六時半頃、堀川允子とその男が同アパートを出たものであれば、八月四日付朝刊はその後に配達された可能性がある、)

4 以上説示のとおり小森ヒサエが堀川に出会つたという昭和四〇年八月四日午前六時三〇分頃の時点で堀川がなお生存していたとも考えられ、このことと対比して被告人の前掲自白内容はその重要な部分において相違するのではないかとの多大の疑念をさしはさむ余地が存するので、右自白をたやすく信用することはできない。

(三)  殺害の動機

検察官は被告人が堀川允子を殺害した動機について、「被告人は堀川允子から次々と借金し、昭和四〇年七月頃には総額三〇万円になつていたが、同女の要求により同月末日までに全額を返済する約束であつたのに、被告人には収入の途がなく返済しえなかつたのに加え、戸籍上協議離婚しながら同棲を続けていた内妻の米田美智子と夫婦げんかし、同女が実家に帰つたまま一週間も戻つて来なかつたことから、同女が被告人と堀川允子とが肉体関係を結ぶ程の親密な間柄にあることを感付いたためではないかと思いめぐらすに至り、もし堀川允子さえいなくなれば、三〇万円も払わなくて済むし、堀川允子との邪恋を清算することも可能であると考えるに至つた。」旨主張している(論告要旨二(1))

1、そこで、まず被告人と堀川允子との貸借関係につき検討するに、〈証拠〉によれば、堀川允子は昭和四〇年七月頃現在被告人に対し合計約三〇万円の金員を貸付けていたが、同女は同年七月二五日田守義夫との間で結納を済ませ、同年一〇月九日同人と結婚することになつており、結婚資金が必要であつたので、被告人に対し右金三〇万円を返済するよう要求していたことが認められる。しかしながら堀川允子が、被告人をして同女の殺害を決意せしめるほど厳しく右三〇万円の返済を要求していたと認めるに足る証拠はなく、かえつて右村井琴子の司法巡査に対する供述調書によれば、村井が同年七月二六日堀川允子の手紙による誘いに応じて堀川允子の居室を訪れた際、堀川は村井に対し、「米田さん(被告人のこと)は返済を一〇月まで待つてくれといつているのや。そこで米田さんに対しては、その金はあんたから一〇万円借りたことにし、『友達が二六日に取りに来るから五万円でもいいから返して、』といつているので、あんたに来てもらつたんや。」と述べ、また、村井が帰りがけに堀川に「米田さんに毎日でも請求して金を返してもらいなさいよ。」といつたのに対し、堀川は「同じアパートにおつてそんなにきついこといわれへんし。」と答えていたことが認められ、また、同女は田守義夫と婚約し一〇月には結婚することになつていたのであるから、同女としては、それまで深い関係にあつた被告人との仲を清算しなければならず、また、被告人から田守に同女と被告人の関係を曝露されては困る立場にあり、執拗に借金の催促をして被告人の感情を害するようなことをするとは考えにくいから、これらの事実を総合すると、堀川は昭和四〇年七月二六日当時、内心では右一〇万円をできるだけ早く返済してほしいと考えてはいたものの、現実には被告人に対しそれほど厳しく右三〇万円を直ちに返済するよう求めていなかつたと考えられ、被告人において、当該借金返済に苦慮し、堀川からの督促により追いつめられた心理状態にあつたものとは到底認められない。

2、次に「被告人が内妻米田美智子に堀川允子との深い仲を知られたのではないかと考えた」旨の主張につき検討するに、

第二〇回公判調書中の被告人の供述部分によれば、被告人は昭和三五年頃より、同じ清和園アパートに居住していた関係から、堀川允子と親しくなり、しばしば情交関係を持つ間柄であつたことが認められ、また米田美智子の司法警察員に対する供述調書二通によれば、米田美智子は昭和三〇年一二月二〇日被告人と結婚し、同三二年一〇月に入籍したが、被告人が以前同棲していた女から、被告人に対し、訴訟が提起されたことなどから、名目上被告人と協議離婚し、その後も清和園アパートで被告人と同居していた者であるが偶々同年七月二四日の晩、被告人が同女に無断で外泊したことから被告人と口論となり、同月二六日から八月五日まで実家である米田為松方に帰つていたことが認められる。

しかしながら、同供述調書(二通)によれば、同女はそれまでも何回か被告人と口論したこともあり、しかも、被告人の女性関係についてはすべて被告人を信用し、被告人と堀川允子の仲については全く疑いを持つたことがなく、それまで被告人に対しそのような疑いを持つているような素振りすら示したことがなかつたことが認められるから、右事実に照らすと、米田美智子が二六日から実家に戻つたまま清和園アパートに戻つて来なかつたからといつて、被告人が同女が被告人の許に戻つて来ない原因について確かめることもなく、直ちに、その原因が同女が被告人と堀川允子の深い仲に気付いたことにあると邪推するとは到底考えられない。

3、従つて、被告人がどうしても自ら又は第三者を介して堀川允子を殺害しなければならないほどの強い動機を有していたと認めるに足る十分な証拠はなく、被告人の前掲自白は右のように動機が頗る薄弱な点からみても、その信用性に乏しいものといわなければならない。

(四)  殺害の方法(タオルの存在)

司法警察員作成の実況見分調書、助川義寛作成の鑑定書によれば、被告人の自白に符合するように、堀川允子の死体の頸部にはタオルが巻きつけられており、犯人は右タオルを用いて同女の項頸部を二回廻して結節を作り、更に右タオルで絞めつけて同女を窒息死させたものと推認される。

しかしながら、司法警察員作成の昭和四〇年一一月二七日付、捜査復命書によれば、右タオルは神戸市葺合区生田町三丁目二六番地の二所在のホテル「ベルリン」(経営者大山文雄)において、昭和三八年八月から昭和四〇年一一月までの間使用されていた約一、〇五〇本のタオルのうちの一本であつたことは認められるが、右堀川允子の首に巻きついていたタオルと、被告人との間の結びつきを明らかにするような証拠は何も存在しない。

(五)  氏名不詳者(共犯者)の存在

起訴状記載の公訴事実によれば「被告人は氏名不詳者運転の自動車に堀川允子と同乗して六甲山に向い、走行中の車中において同女を絞め殺し、右氏名不詳者と共謀のうえ、堀川允子の死体を六甲山大月地獄谷に突き落して遺棄した、」というのであるが、右氏名不詳者及び右自動車が実在していたものと認めるに足る証拠はない。

もつとも、前記認定のとおり、堀川允子の死体の頸部には、前記ホテル「ベルリン」で使用されていたタオルが巻きついていたが、右タオルとその氏名不詳者を結びつけるような証拠もまた存在しない。

(六)  死体遺棄現場付近の状況

〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

堀川允子の死体遺棄場は神戸市街北方の六甲山中で、京阪神急行神戸線六甲駅から北に直線で約五、〇〇〇メートルの大月地獄谷の北端に位置する雑木林内である。右現場の西方約一三八メートルのところに、阪急神戸線六甲駅から六甲ケーブル土橋駅、六甲駅を通つて有馬、宝塚方面に抜ける誰一の自動車道である表六甲ドライブコースがあり、六甲山頂の方へ北に向つている右ドライブコースは、阪神バス、神戸市バスの凌雲荘下停留場あたりで西にカーブしているが、右カーブしている地点から北に向つて分岐した地道が通じており、その地道を約62.5メートル辿つてゆくと、地道は切石を敷き詰めた石畳の坂道に変わり(自動車は右地道まで入ることができる)、その坂道は山頂の凌雲荘や回転展望台に通じ、歩行者の近道になつている。右坂道を前記地道の北端から約49.3メートル登つた地点に電柱があり、そこから東に向つて山腹を縫うように幅メートル位の山道が分岐しており、その山道を約二七メートル辿ると、死体遺棄現場の真上にでる。前記ドライブコースが西にカーブしている地点の手前の道路西側には飲食物販売業谷口商店(経営者谷口孝道)があり、ドライブコースを隔てた同商店の向い側は駐車場になつている。また前記地道が石畳の道に変るすこし手前の地点西側には毎日新聞山の家があり、地道が石畳の道に変つた地点付近の道路西側には、昭和四〇年八月三日当時阪神土木工業株式会社のバラック建飯場があつた。そのほか、付近には三菱六甲クラブ、阪急山の家、日商健康保険組合六甲荘など会社の避暑保養用の施設が散在している。前記谷口商店前の駐車場は同時に神戸市街を見下す見晴らし台になつているため、夏の間は神戸の夜景を見に来る人が多く、また夜間の登山者もあり、同商店は平日でも午後一〇時頃まで営業しており、午後七、八時頃には右駐車場に平均一〇台位の車が停つている。毎日新聞山の家は収容能力一五名位で夏の間はほとんど満員であり、他の施設もほぼ同様の状況で、夜間付近を出歩く人も多い。また昭和四〇年八月三日当時、阪神土木株式会社の飯場には、常時四〇名位の作業員が泊り込んで、凌雲荘建設の突貫工事に従事し、石畳の道を通つて屡々凌雲荘の工事現場との間を行き来しており、アベックも相当数同じ道を歩いていた。八月三日頃の午後八時頃における谷口商店付近の明るさは、同所が海に面した高台である関係上一〇メートル乃至二〇メートル位離れた所から他人の顔が見える程度である。

以上の事実が認められる。

従つて、これらの事実を総合すると、本件公訴事実記載のように、昭和四〇年八月三日の午後八時三〇分頃、被告人及び氏名不詳の男が、このように人通りの多い死体遺棄現場付近に自動車を停め、車中で紋め殺した堀川允子の死体を運び出し、誰にも見つけられないように大月地獄谷まで運んで遺棄することはかなり困難な状況にあつたといわなければならない。(前記実況見分調書によれば、自動車が入ることができる前記地道の北端から死体遺棄現場真上の山道まで約七五メートルある)

(七)  結論

以上のとおり、死体発見の経緯、殺害の日時、殺害の動機、殺害の方法、氏名不詳者(共犯者)の存在、死体遺棄現場の状況の重要な各点について詳細に検討を加えたが被告人の前記自白の真実性を裏付ける的確な補強証拠に乏しく、かえつて、当該自白の信用度を減殺するような諸事情(前掲(一)乃至(三)、(六))が存するので、結局右自白には信用性がないものといわねばならない。

第三むすび

以上の次第であるから本件公訴事実中、強盗殺人、死体遺棄の点は結局、いずれも犯罪の証明がないことになるので、刑事訴訟法三三六条を適用して右の点につき無罪の言渡しをする。

よつて主文のとおり判決する。

(大西一夫 畠山芳治 小杉丈夫)

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